予選タイムは「11.03」
堂々の1着だったと、俺たちの前の席に座っている別の高校の選手が得意げに語っていた。
あの時、スロープから歩いてくる個体は確かにそうだった。
言葉が詰まって、喉から出てこなかった。
ただ、中学ほど自分の実力に自信が持てなくなっていた事実をその瞬間、突き付けられたのだ。
俺は今ゴール付近のスタンドの影でチームと一緒に座っている。
正直、種目を観ている余裕なんてなかった。
あいつの成長を目の当たりにして、不安で押しつぶされそうになっている。
俺が自分の中に閉じこもって、何もできなかった期間、藍川セイゴは常に行動していたのだ。
そもそもなぜ、またあいつに勝とうなんて思い立ったのだろうか。
名東高校に入って、陸上部を創って、グランドも造って、何が動機なのか分からない。
圧倒的な実力差。
ベストこそ俺の方が速いが、何の自信にも繋がらないことは事実明白。
俺は自分が今までやってきたことに不安を覚えた。
分からない。分からないから不安になる。
ここまで俺を信じて、取り組んできてくれた仲間。
久しぶりに再会したライバルの成長に、ただただ項垂れることしかできない。
情けない。
「トモヤ100mの準決勝始まるぞ」
遠くを観ていた俺は意識を取り戻す。
「あ、おう、しっかり観なくちゃな」
周りから見たら様子がおかしかっただろう。
電光掲示板には、男子100m準決勝1組5レーンに藍川セイゴの名前が表示されている。
中学の時より線が太くなって、体格も大きくなっている。
30mくらいのスタート練習では、別次元の動きだ。
会場が期待に包まれる。
空いている1レーンに今の自分を投影してみる。
ただのイメージに過ぎないが、何かを確かめたい気持ちであった。
今は緊張が欲しかった。何よりも。
各々がスタートラインギリギリに親指と人差し指を合わせる。
静寂を切り裂くような爆音。
飛び出したのは間違いなく5レーン。
そうなることは分かっていたと、会場はタイムに期待を寄せる。
中間疾走でトップに躍り出ると、更に再加速。
投影した俺の影は消えていた。
「10.74」
風は-1.3
オーディエンスは歓喜に沸く。
というより、藍川セイゴの決勝への期待の準備をもう始めている。
圧巻のレースをするスーパールーキー。
走った後も素っ気ない顔でスパイクの紐をほどいて競技場から去ろうとする。
おそらくベストは更新している。
それも大幅にだ。
つい一年前までは立場が逆だった。
何がこの歴然の差を生んだのだろう。
答えは論を俟たない。
行動していなかった時間の総てが、今の取り返しのつかない時間になっていることだ。
常に変化を求めていた藍川セイゴ。
変化を諦めて気づいた時には退化していた夏木トモヤ。
当たり前だった。
変化を求めない者はチーズを手に入れられない。
人間は自由とか変化とか謳って、今の環境から抜け出すことを恐れてしまう生き物である。
例え、その環境が劣悪で悲惨なモノでも、なぜか謎の安心感を覚えて動こうとしない。
自分で自分を檻に閉じ込めることによって、可能性の範囲を指定してしまう。
ある種の保守的なイデオロギーが働くのだろうか。
その働きによって、短い安心を手に入れ、永遠の不自由の中を生き続けなければならない。
まさに俺自身がそうだった。
いつも自分が決めていた。
その環境を選んだのも、檻の中で生きていくことを決めたのも、総て自分が人差し指を立てた応えだった。
俺は広大な陸上競技場で、檻の中からライバルのスプリントを観ていたというわけだ。
滑稽だろ。
気付いた瞬間、あれだけ暖かったはずの獄中が、急に冷え込む。
それも氷点下までに。
このままではダメだ。
それだけは潜在意識の中に確かにあった。
俺は飛び出した。
「おい!トモヤどこいくんだよ!」
レイジが叫ぶ声は、既に風の音と混ざり合っていた。
スロープ全速力で駆け抜け、100mのゴールに急いで向かう。
そこにはボトルを傾けて、水を飲んでいるライバルの姿があった。
俺は詰め寄る。
息を切らせながら、たぶん何を言っているか分からなかっただろう。
が、それについてはどうでもいい。ただ伝えたかった。
「秋の新人戦、決勝で戦おう。
あの時、もうすべて終わりだと思っていた。
でも、このレースを観て確信した。
俺にしか選べない道がある。その道の途中に藍川セイゴ、君がいる。」
お互いに一呼吸の間を置く。
「県レベルの新人戦くらいは余裕で通過したかったんだけど、俺が火をつけちゃったみたいだから楽しみにしておくよ。」
ありったけを伝えた。
錆び付いた鉄檻のカギ穴は内側にあったことに、その日ようやく気付くことができた。