『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』29.クーラーボックスに氷を | 陸上トレーニングスクール  

『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』29.クーラーボックスに氷を

水上館高校の予選タイムは41.77.

 

新人チームにしてはかなり好タイムだと思う。

 

会場の驚きを隠せない様子が手に取るように分かる。

 

レース後に感情の変化を表情に出さないところも如何にも名門校の風貌だ。

 

続く2組目の1着のタイムは42.32だった。

 

おそらく、決勝進出ラインは42.4切りだと考えられる。

 

名東高校にそんな実力があるのか。

 

そして、3組目が始まる。

 

俺はスターティングブロックをセットし直して、軽くダッシュする。

 

レイジのところまで走ろうと思ったが、誘導員のおじさんに止められてしまった。

 

「スタートダッシュは短めにお願いします」

 

2走のスタートを切るためにガムテープが貼られていたのを確認して安心する。

 

全てが初めてだからな。

 

後は4走のトオルまで、バトンを繋ぐだけだ。

 

大きく深呼吸をする。

 

時間が止まっているようだ。

 

オンユアマークス、、、

 

そう聞こえた。



この独特の緊張感を味わうために過去を費やしてきた。

 

セット、、、

 

音を置き去りにするように、一斉に駆け出した。

 

一番でレイジにバトンを渡したことには間違いない。

 

「いけぇああ!!レイジーーぃぃ!!」

 

夢中だったに違いない。

 

バトンパスにミスは無かった。

 

カイに渡る。一度バトンパスを外したが、何とかセーフティゾーンで渡った。

 

むしろ綺麗に渡った。

 

いい順位につけている。

 

トオルがカイを懸念して、スタートで故意的に出遅れた。

 

しかし、詰まった様子はない。

 

それだけトオルはこの大会に合わせてきている。好調な訳だ。

 

「トオルっっ!!!!ファイトっつ!!!」

 

【42.22】

 

フィニッシュタイマーの速報の表示画面に数字が並べられる。

 

1着ではない。

 

【4レーン名東高校 42.38】

 

着順で通過した。

 

決勝だ。奇跡じゃない。

 

俺はレイジのところまで走った。

 

「レイジ決勝だ!これが陸上だ!」

 

俺は興奮しすぎて、語彙力を失った。

 

「おう!とりあえず100mもしっかり結果残そうぜ!」

 

スタンドでは無名の高校が、リレーで決勝に進出して驚いているだろう。

 

もちろん、名東高校のメンバーも驚いてはいるが、それ以上に根拠のない自信が俺たちにはあった。

 

根拠なんて重たい荷物を抱えて走っていたら疲れてしまう。



さあベースキャンプに戻って、100m予選に向けて休もう。

 

「なんだ?名東高校って?」「陸上部なんて無かったよな?」

 

真波先生と島本さんの待っている場所まで行くのに何回聞いたことか。

 

仕方ない。全くの無名高校だから。

 

戻ったらみんな待っていた。

 

「てっきり、予選落ちして落ち込んで帰ってくるかと思ったよー」

 

先生が場の空気を和らげていた。

 

「みんなすごいね!決勝だよ!決勝!」

 

たぶん何も分かっていない島本さんもチームを盛り上げてくれる。

 

「トモヤ!予選まであと1時間だな」

 

レイジはペットボトルに入った水をパスする。

 

キャップを右に捻り、ボトルを傾ける。

 

「俺はゆっくりするよ、招集の前にスタートの確認だけする」

 

9月だというのに暑い。

 

少しでも体力を温存しなければならない。

 

お気に入りの曲であるアクアタイムズのALONESをリピートする。

 

トオルが先にアップへ行った。

 

アンカーとして、個人でも決勝を狙っているのだろう。

 

発言は大きいが、それに見合っただけの野心がある。

 

「ハイ!冷たいでしょ!」

 

目を伏せていた俺は、額に氷を押し付けられてビックリした。



「うぁー!つめてぇ!氷どこに売ってたの?」

 

片方のイヤホンが落ちる。

 

島本さんがコンビニで買ってきた氷をクーラーボックスに入れていた。

 

「そいえば、さっきのレース見せてよ」

 

島本さんがリュックからタブレットを取り出してくれた。

 

まだ、1本しかビデオデータが無い。

 

そうだ、タブレットは練習でも活用していこう。

 

どの区間もそつなくバトンパスをこなしている。

 

攻めてはいない。

 

3と4をもう少し伸ばせるだろうな。



おそらく1.5歩はいける。

 

決勝は更にタイムを狙いたい。

 

よし!そろそろ100m予選の準備だ。

 

俺は起き上がり、レイジとカイに声をかけた。

 

「短めのダッシュ入れに行こう」

 

「おっしゃ!いくでーー!!」

 

100m予選は6組あって6+3だ。

 

つまり、各組上位3名とそれ以外の記録上位6名が準決勝に進出する。

 

補助競技場に向かう。

 

水上館高校のジャージを着た誰かが歩いてきた。

 

藍川セイゴではない。

 

2年生?分からないがフラついて歩いてきた。

 

肩が当たりそうになる。

 

「あーわりぃわりぃ、前見てなかったわー。あれ?夏木くん?まだ陸上やってたの?」

 

「はい、誰?」

 

「誰だっていいじゃん、怪我しないようにねー」

 

感じが悪いやつだ。

 

俺があんな奴に負けるはずがない。



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