多くの選手は開門の合図とともに競技場に流れていく。
それを横目にしていた俺は15分後くらいにサブトラックに入る。
山谷先生は少し落ち着かない表情ではあったが、俺のこと信じていてくれたのだと思う。
「暑いからあまり日に当たりすぎないようにな」
当日は36度を超える猛暑が連日続いており、その日も脱水症状を起こしていた選手は多かったに違いない。
真夏のレースになると有力選手が様々なアクシデントで決勝に進めなくなることがある。
陸上競技は当日の過ごし方で、結果を変えられることができるのだ。
俺はサブトラック内の影を厳選して、アップをしようと計画している。
実寸サイズより0.5cm大きなサイズのランニングシューズの紐を左足から結ぶ。
俺のルーティーンだ。
ルーティーンに特に意味はないが、あるとしたら。
いつも通りの特別演出だろう。
あらかじめ競技場の外で少しだけ身体をつくっていたので、軽いドリルからアップを始める。
一つ一つの関節と筋肉を緩めるイメージでリラックスしながら行う。
当時、それを観た山谷先生は先生自身もリラックスしたと言っていた。
俺のアップは観ている人とリラックスさせる効果があるのだろうか?
当日の過度な緊張は余計な体力の消耗につながる。
適度に緊張しつつ、レースを楽しむ心掛けが必要だ。
多くの選手が一度に競技場で汗を流している。
陸上競技をみんな愛しているのだろう。それと同時に陸上競技はみんなに愛されている。
スポーツ競技としてここまで完成されたスポーツは他にないだろう。
紛争の絶えない世界経済や争う続ける人種差別。
人が武器を手にするという過去の常識を変えたのが、オリンピックであり、陸上競技だ。
いつしか闘争は人を物理的に傷つけることない「競技」に変わっていった。
スポーツは偉大だ。
相互理解のツールとして、人が正しい人道を歩むためにつくられたものだ。
だからこそこの大会にかける思いは強かった。
陸上競技を通して多くの人に楽しんでもらいたい。
俺はスプリントドリルをしながら、先走る気持ちを抑えながら陸上競技について振り返っていた。
招集1時間前。
俺は日陰で山谷先生と会話もなく過ごしていた。
スパイクでのスタート調整も終わり、緊張を抑えながら、レースのイメージをしていた。
それを知っていた山谷先生は持ってきた携帯用の折りたたみ椅子にすわり、競技場の遠くを見ていた。
いよいよ予選だ。
2組7レーンでの出場、それはプログラムに「夏木トモヤ」の文字を見てすぐに理解できた。
どのレーンも同じように見えるので特に不満はない。
音が鳴ったら跳びだすことはみんな同じだから。
感覚としては、音を聞いてスタートするより、空気中を振動して伝わった音が、身体に触れてスタートしている。
全身が耳であるイメージを持っている。
なんとなくその方が速く反応できるからだ。
「山谷先生、行ってきます」
特に緊張はなかったが、その言葉を発したことにより少しずつ実感がわいてきた。
先生はニコッと笑って頷くだけだった。
いつもと同じだ。
サブトラックでアップを終えて、メイン競技場を半周するようにコンクリートの道を歩いた。
同種目に出場する選手が続々と同じ方向に向かう。
特に知り合いもいない俺は、周りとのコミュニケーションを必要としない分、気持ちは楽だった。
屋内に入ると、広い内装と記念品のようなものが飾られてあった。
昔、大阪世界陸上が行われた会場だけあって、いつも練習している市営の競技場とは大違いだ。
期待に胸を弾ませながら招集場所に着く。
腰ゼッケンを箱から回収すると「7」という数字を確認して、長椅子に座った。
両腰につけるタイプの仕様だ。
全国大会となるといろいろ厳しくなったり、めんどくさくなったりする。
安全ピンを一つ一つ外しながらランパンに付けていった。
周りは友達や知り合いが多いみたいだ。
終始会話を楽しんでいるように見える。
俺の苦手なタイプの人間だらけだ。
ゼッケンはどことなく斜めになっているが、競技に影響するわけではないので気にしない。
というか、いつも斜めになっているので、これもある種のルーティーンのようなものだ。
残しておいた40mlを口に含み立ち上がる。
片手の人差し指と中指にスパイクを引っかけて列に並ぶ。
この並んでいるときに、他の選手は何を考えているのだろう?
スタートで跳び出すイメージを固めているうちに、順番が回ってくる。
ゼッケンとスパイクピンの長さを確認された。
あとはスタート地点に行って、時間を待つだけだ。
試合当日はやることが多いようで少ない。
走るためにすることと走ること。
この2つのアクションしかしないからだ。
今大会ではスタート地点までの誘導があり、ヤンマースタジアム長居の中を探検させてくれるようだ。
1組目の後に続いて歩みを進める。
ここからスイッチが少しずつ入っていく感覚は陸上経験者なら全員解るに違いない。
レース20分前。
俺の思い出話しに付き合ってくれてありがとう。
もうすぐで終わるから。