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『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』3.叶わなかった理想

12月24日。

俺は家の机に向かってペンを滑らせていた。

教科は国語だったと思う。

蝉の研究をしている学者の話しの読解問題だ。

季節外れも甚だしいが、難問に頭が熱くなる。

学生や社会人になったら、好きな人と同じ夜を過ごすのだろうか。

 

「トモヤーご飯、毎日勉強ばかりで疲れてるでしょ!早めに食べよ!ハンバーグっ」

 

そんなロマン溢れる関心事をかき消すかのように、一階から母さんの声がする。

父さんはいつも帰りが遅いから、母さんと一緒に食事をすることが多い。

っと言っても、母さんは父さんが帰ってくるまで、ご飯を口にしないから実質、俺だけの食事になる。

 

それでも、母さんは食卓に座って一緒に食事をしてくれた。

 

「勉強は順調?体調崩してない?」

 

「うん」

 

母さんの料理がおいしいから、つい返事がそっけないものになってしまう。

勉強も体調も今のところ異常はない。

いつも行っている市立図書館は今日は休館日で、仕方なく家で勉強することにしている。

おいしいご飯がすぐに食べられることは大きなメリットだ。

 

「トモヤ、もう陸上はいいの?」

 

母さんは悲しそうな顔で俺をのぞき込んでくる。

その問いは、一度ではなかった。

何度も何度も同じ問いをもらっている。

俺の返事は変わらない。

 

「今は将来のために勉強するよ、、俺の人生だから好きなようにさせてよ」

 

俺はいつも押し殺すように返事をしていたに違いない。

自分を正当化しては、それを両親に伝えてきた。

 

そういえば、家で勉強するデメリットが一つあった。

机に写真が飾ってあることだ。

俺が置いているから言い訳の余地がないが、片付けるのが面倒だから置いてある。

そこに写っているのは、俺がユニフォームを着てゴールラインを駆け抜けている画。

 

素敵な呼び方をすれば、いい思い出だ。

 

ただ、その呼び方をするのにふさわしいものではない。

結果的に俺は競技から一線を引いており、もうスポーツで得た仲間や友情といった類のワードは問題集には出てこない。

積み上げてきたものは時として、無慈悲に崩れ去っていく。

 

そんな経験をしてきた俺はいつしか、陸上から遠ざかるようになった。

そろそろ俺が走らなくなったキッカケの話しをするね。

 

お盆休みが明けて、世間は大型連休前に片付けきれなかった仕事に追われる時期だろう。

そんな忙しい中、全国大会に挑もうと俺はレーンに立っていた。

山谷先生の引率で前日から現地入りしていた。

 

その時は緊張していたんだと思う。

 

俺の自己ベストは10.81で全体の2番目でエントリータイムを出していた。

今から思うと中学生の記録ではないと自分でも関心に浸る。

しかし、上には上がいる現状。山谷先生は俺よりずっと遠くを見ていたと思う。

 

中学生の全国大会を「全中」というが、その同校から出場する選手はいない。

だから、山谷先生と俺だけで前日、近くの定食屋に行った。

「トモヤ、いつものお前でいいよ。好きなものを食べなさい。」

 

特に食事制限とかしたことがなかった俺は、言われなくてもハンバーグ定食をお腹いっぱいに食べるつもりでいた。

山谷先生はよく分からないうどんのセットを注文していた。

後から聞いたら、その時は俺以上に緊張していたそうだ。

俺自身はそれほど大切にされていた選手だったのだと、机の上の写真を手に取る。

定食を食べ終わると20時前。

大阪の夜は賑やかだ。

コンビニの明かりに誘われるように明日の朝ごはんとドリンクを買って、試合に備えた。

この大阪の街で明日、全中が行われることを知っているのは何人いるのだろう?

俺の感覚では、多くはないだろう。

しかし、その全中という空間に大きな魅力を感じていた。

 

マジョリティに投資するのではなく、ニッチな枠で輝こうと俺は必死になっていた。

 

陸上競技男子100m

 

まだまだ大きなスポーツになるだろう。

俺は中学生ながらに、山谷先生が教えてくれた陸上競技に何か恩返しができないかということまで考えていた。

 

おそらく、当時はそれだけ夢中だったのだろう。

 

迎えた当日。

昨晩はふかふかのベッドで快眠だった。

朝食はロビーの小さなスペースで山谷先生と二人で食べた。

 

学校名が入ったジャージを着ている生徒が横を通過する。

同じ大会に出るのだろう。

どことない親近感とライバル心をよぎらせながら、マスカット味のゼリーを吸う。

会場につくと多くの選手がサブトラックの開門待ちをしている。

俺は山谷先生が持ってきてくれたマットに座り、大好きなバンプオブチキンのセイリングデイを聴く。

 

山谷先生には特に知り合いの他校の先生もいないので、ずっと俺を見守ってくれていた。

 

両親からは準決勝には間に合うように行くからと、ラインが入っていた。

 

「決勝でもいいよ」

 

と送り返そうとしたが、それはやめておいた。

なんとなく。

 

開門前の独特の緊張感が好きだ。

今にも弾けそうな感情を抑えて、静かに時を待つ。

ちょっと自分に酔っているんじゃない?

 

っと、思うかもしれないが、陸上選手は全員そうだと思う。

じゃないと、あんな大舞台で脚がすくんで走れないよ。

 

開門の合図。

さあアップ開始だ!

『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』4.全国大会

『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』2.過去から見る現在