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『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』7.閉ざされた未来

補助競技場には山谷先生が笑顔で陣取りをしていてくれた。

 

二人で試合に来るには大きすぎるほどのスポーツマットを広げていた。

 

決勝まであまり時間がない。

 

補助競技場でアップする選手もかなり減ってきている。

 

競技力の洗練が進んだせいか、スタンドには人が増えていく。

 

観る人と観られる人。

 

人は希少性に魅力を感じる生き物だ。

 

陸上競技男子100m決勝。

 

勝利を決める戦いが始まる。

 

「藍川くんの怪我はひどいそうだ、今も痛みに耐えている。彼のためにも全力で走ってきなさい。」

 

木々の隙間から漏れる光を浴びて、悲しそうな表情を浮かべる先生。

 

たぶん藍川セイゴのことを俺と同じくらい期待していたのだろう。

 

ライバルとの切磋琢磨を教育の過程で必要だと考えていた先生は、彼の突然の怪我にまだ困惑しているように見えた。

 

「先生、大丈夫!安心して観ててくださいね!」

 

冷たい水を口の中で少し温めて、それを喉に通した後、俺は山谷先生にニコッと笑いかけた。

 

少し涼しくなってきたトラック。

 

いつも履いているスパイクはアシックスのエフォート。

 

土のグランドでも使える初心者モデルだ。

 

先生は短距離専門のスパイクを許してはくれなかった。

 

高校で競技力を一気に伸ばしてほしいからだそうだ。

 

当時はそう言われて、この初めて買ってもらったスパイクを結局中学三年までずっと使用している。

 

特にこだわりもなかった俺はこのスパイクこそが最上位モデルだと勝手に思い込んでいた。

 

そもそもスパイクでそこまで走りが、変わるのかということに疑問を持っていたのだ。

 

俺はどんな大会でもエフォートだ。

 

スパイクの紐をギュッと結ぶと、スターティングブロックの後ろで山谷先生が合図を鳴らしてくれる。

 

両脚を面にピタッと付け、腰を上げる。

 

合図とともに一歩目がゴールに向かう。

 

35m付近でヘッドアップし、遠くを見る。

 

イメージは完璧なモノへと昇華されていく。

 

木陰に戻り、先生が座る椅子の横で紐をほどく。

 

「トモヤ、招集場所まで一緒に行ってもいいか?私をここまで連れてきてくれて、ありがとう。」

招集開始15分前。

 

俺は快く首を縦に振る。

 

ここまで来れたのは先生のおかげだ。

 

そして、感謝するのはコッチの方だということも理解している。

 

準備が整い、先生の特設休憩場所を撤去してトップ8が集まる場所に向かう。

 

日本中の陸上競技ファンが待ち望んでいるレースがもうすぐ始まるのだ。

 

私立高校のスカウトマンがこぞって会場に押し寄せる。

 

それだけ陸上競技というマーケットを信じて動いている人々がいる。

 

硬いコンクリートの道をトボトボ歩くと、クーラーの効いた会場に入り、その時を待つ。

 

「上で観ている。トモヤらしいレースを期待しているよ。」

先生はそう言って握手を求めて、スタンドに向かった。

 

長椅子が一人一台用意されており、広々とした空間がそこにはあった。

 

決勝までの時間をここで過ごすかと思うと、少し居心地が悪い。

 

物ではなく空気が空間を占領しているからだ。

 

用意された5レーンの腰ゼッケンを手に取り、それを腰に当てながら安全ピンを解除していく。

 

去年まで県大会で少しだけ、名前のあった俺が全国の舞台まで来れるとは正直思っていなかった。

 

一部の才覚ある集団のスポーツだと思っていたが、実際は違って、取り組み方によって描いた未来をつかみ取れるスポーツだった。

 

多くを学び、それを実行する。

 

そのルーツの繰り返しこそが、自分の知らない世界の扉を開けてくれる。

 

単純で解り易く奥が深い。

四文字熟語を作るなら

 

「解易奥深カイイオクシン」だ。

 

今までの総てをぶつけよう。

 

収集を済ませて、誘導員の指示で決勝のステージに向かう。

 

会場は100mという種目への期待と緊張で今にも弾けてしまいそうだ。

 

現地に着き、一時的な自由が許される。

 

気持ちを落ち着けて、全国を少しばかり味わう。

 

スターティングブロックの最終調整を行う。

 

今までで一番最高な感覚に襲われる。

 

これならいける。

 

自分の中で、1つの確信が生まれる瞬間に立ち会う。

 

「第5レーン夏木トモヤくん!」

 

選手紹介行われ、ひときわ小さな拍手が起こる。

 

山谷先生、そして決勝に間に合った父さんと母さんが小さく見えた。

 

十分すぎる応援だ。

 

昂る感情を抑えてレーンの白いラインのギリギリに親指と人差し指を着ける。

 

そして、スタートの音声を待つ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

『set……….』

 

 

 

 

 

 

爆音がスタンド内に乱反射する。

 

音より速く跳び出すイメージの中、俺は40m地点で独走している。

 

最高の会場で最高のパフォーマンス。

 

60m地点で他の選手の肩が台頭する。

 

いよいよレースが面白くなってきた。

 

ここから接戦を繰り広げ、優勝だ。

 

70m地点。

 

俺はゴールしたのだろうか。

 

景色はドーム型の青空が見える。

 

身体が鈍く響くような痛みとともに、状態は仰向けで。

 

起き上がろうとしても、起き上がれない。

 

必死にもがいてフィニッシュタイマーを確認する。

 

「10.95」

 

準決勝のベストは超えられなかったが、初の全国大会優勝だ。

 

早く戻って、先生と両親に会いたい。

 

最高の報告がしたい。

そこからたぶん記憶はない。

 

後から聞いた話しだが、取り乱したように泣きわめいていたらしい。

 

医務室で目が覚めると、横には先生と両親と車いすに座った藍川セイゴがいた。

 

その時の情景は鮮明に覚えているが、状況は全く思い出せない。

 

どうやら決勝はゴールまで走り切れなかったらしい。

 

「いつかまた一緒に走ろう。俺は絶対に諦めないから。」

 

藍川セイゴはそう言って、医務室を後にした。

 

この後の展開は想像できると思う。

 

俺はそこから陸上を離れた。

 

俺が信じていた陸上は何も生まない。

 

だから、今はこうして勉強に勤しんでいる。

 

 

もう1月だ。

残された時間は僅かしかない。

 

気晴らしに近くの競技場のスタンドに行ってみよう。

 

なんとなくあの時の、観客の気持ちが知ってみたくなった。

『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』8.雨の日、競技場にて

『今だけでいいから駆け抜ける勇気をください』6.突然の出会いと突然の出来事